2012年10月26日金曜日

49年前のあの日に会いに・・・2

「今井 大丈夫か!」

リーダーのKさんと同級の内田が来てくれた。アア助かった。よかったあ。

「大丈夫です。」と言ったものの、腰が痛くて身動きできない。

パーティーの仲間全員が降りてきてくれた。早速30m上の道まで上げる仕度を始めた。担架は木を切って作った。そこに細引き(ロープ)を張り巡らせた。

急造の担架に63kgの私を乗せて、運び上げが始まった。私は担架から落ちまいと、必死に掴まっていた。数時間かかって道に引き上げられた。地元の消防団の方も駆けつけてくれていた。やがてトラックの荷台に担架ごと乗せられ、病院に向かった。新潟県立津川病院だった。

診察の結果、第3腰椎が損傷していた。しかし麻痺などの症状もないので、快復を待つだけとなった。ベッドに仰向けの寝たきりの身となった。パーティー仲間が交代で、24時間付き添ってくれた。食事の世話からシモの世話までやってくれた。真夜中でも、声をかけるとすぐに対応してくれた。しかも病室日誌(上の写真)が作られ、私の一挙手一投足が細かく記録された。例えば・・・

7月24日、21:00・・・睡眠薬を飲んだが、効き目なし。

7月25日、0:45・・・今井が眠れないので、イラだっている。アレコレ手を尽くしてもダメ。今井は焦っているし、神経も苛立っているようだ。

3週間後、腰にギプスを装着した。早速立ってみる。足の指が紫色になる。血が足に行かない。一歩も歩けない。情けない。18歳の私が、たった3週間でこのていたらく。情けなくて、涙が出る。しかし身体の回復は早かった。3日も過ぎると外まで歩けるようになった。ついに退院の許可が出た。8月17日である。

入院中、ワンゲル仲間は麒麟山温泉近くの廃屋を、鹿瀬町役場のご好意で、借りられたので、そこから交代で病院にきてくれていた。7月末には母が来てくれたので、私もワガママできた。

 

さて、今回の旅に話を戻す。

車で実川林道を下りながら、パーティー仲間だった内田と吉田に聞いた。

「車で走ってるこの道を、あの日はどうしたの?」と私が尋ねた。

「うーん、覚えてないな〜。この道を歩いたはずだよなあ」と内田が自信なさげに答える。吉田も、

「歩いたはずだけど、思い出せない。でもな、林道を下りきって磐越西線の線路にぶつかったんだ。線路脇で休憩していたら、貨物列車が通って、それが駅でもないところで停車したんだ。ビックリしてたら、最後尾の車掌室の車両に乗せてくれたんだよ。そして鹿瀬駅まで乗せてくれた。」と、当時のことが断片的に思い出されてきた。私は、

「初めて聞く話しだよ。国鉄も粋なことをしてくれたもんだね。」

その後、鹿瀬駅、津川病院と見て回ったが、一つとして当時のことは思い出せなかった。49年の時は、あまりにも長い年月であることを思い知らされた旅であった。

またこの旅で、ワンゲル仲間に始まり、友人たち、学校関係者、病院、鹿瀬町役場、消防団、国鉄などなど実に多くの方々の協力で、私の生命が救われたことを再確認した。本当にありがとうございました。幸いにして、怪我の後遺症もなく今日に至っています。今あるこの生命、大事にします。

記念に雪椿を買ってきました!鹿瀬は雪椿の町だったのです。そして雪椿は、私の憧れの花だったんです。憧れの雪椿に、思い出の地、鹿瀬で出会えるなんて何という巡り合わせなんでしょう。

そういえば、津川病院でお世話になった、あの憧れの看護師さん(カワイコちゃん)にも会いたかったなあ。

 

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